死は悲しむべきものじゃない、
“死は悲しむべきものじゃない"
湊かなえさんのトンガを舞台にした作品[絶唱]の帯(ハードカバー)に書かれている一言である。
トンガに来て、死生観の違いはずっと感じていた。
今年の冬はとてもいろんな人が亡くなった気がする。
そこらじゅうで、いろんな人が「putu(葬式)」だの「mate(死)」だのを聞きまくっていた。
日本じゃ軽々しく言えないことだけど、当たり前に日常茶飯事聞くのである。
訪問診療(3ヶ月に一回行っている)で回った患者さんも、訪問診療行った後、1ヶ月もせず3人も亡くなった。
約2年も行なっていると流石に、患者さんも覚えてはくるが、今回の訪問診療は、カウンターパートもいない時も多く、自分で考えながら回っていたのもあり患者さんとちゃんと向き合ったので思入れもあって。
今回の訪問後に、同じクリニックで働く保健師さんたちから、誰々がいつ亡くなったよと聞かされると驚いてばかりだった。
いや、それ以上に今日は驚いたことがあった。
同僚の保健師の、義理のお母さんが亡くなったのだ。
同じ村に住んでいる私は時々、日曜日の教会へ行き、そのままランチをご馳走になっていた。
そのおばあちゃんは、クリニックの患者さんでもあった。
会った回数なんて、両手で収まるくらいかもしれない。それでも、思い入れがあるのは、こんなに悲しいのは、外国人である自分に対しても同じ目線でいつも話してくれてたからであろう。
ふわっと突然行くわたしに「あら、ずっとどこへ行ってたの」「全然来なかったわね、最近」
といった感じでいつも優しく向かい入れてくれた。
少しだけ世間話をし、話すことがなくなったら、ぼーっといっしょに過ごす。
言葉はなくても同じ空間にいるだけで、何か通じ合えることはあるんだと思う。
ワークショップのあと、病院で亡くなったことを聞かされた。
明日から2日間だけだけど、首都に上がらなきゃならない、もしその間にお葬式とかあって、ちゃんとお別れができないのは嫌だと思って、1人で病院に向かった。
いろんな人が挨拶をしに来てた。
同僚が私を見て「会いにきたの?」と優しく言ってくれて、頷いた。
会って頬にキスをして、冷たさを感じると涙が止まらなかった。
「一緒にルー食べたもんね」って私が日曜日に行ってたことを知ってる家族は言ってくれた。
日本にいたらこんなに泣いただろうか。
と自分でも思う。
同じ回数あっていた人で、同じように話した人であっても、
きっと人への向き合い方が違う気がする。
日本にいるときは、言葉が通じる分、いろんなことに対して軽くなりがちである。
トンガにいると人と話すのも、毎回思いを込めて丁寧に接していると思う。
考えて、考えて、ちゃんと伝わるように話す。
だからこそ、その人、1人に対して思い入れが強くなるということに気づいた。
"死は悲しむべきものじゃない"
どうか、安らかに、
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